総合講座「現代社会とマスメディア」3
総合講座 中学1年・2年・3年対象「現代社会とマスメディア」3
2月15日に行われた第4回目の「総合講座」は,校外からの3人目のゲストとして朝日新聞社記者の藤森研さんに来ていただきました。藤森さんは長年,社会部の遊軍記者やデスク(社会部次長)として活躍され,論説委員・編集委員を経て,現在はシニア・ライターとして健筆をふるっています。
今回は,臨場感あふれる「日航機墜落事故」についてお話いただきました。以下はその内容を大雑把にまとめたものです。
1985年8月12日。乗客・乗員524人を乗せて,18時4分に羽田空港を飛び立ったJAL123便が,レーダーから消えたという第一報が朝日新聞社入った時,翌日の朝刊担当のデスクのそばにいた藤森さんは,「藤森君。航空部員,写真部員らと社機で現場を探してくれ」というデスクの声を受けました。これが「世界最大の飛行機事故」取材の幕開けでした。
すでに夜になっている山中を,時間をかけてジェット・ヘリで低空飛行していくと,川のように点々とつながっている真っ赤な火の模様がみえました。焦げたような臭いと煙がたっており,明らかに飛行機の墜落による痕跡でした。コンパスと分度器と地図によって,その現場が群馬県内の山中であることをつきとめました。他社のヘリはまだ到達しておらず,これは間違いなくスクープでした。ただ,その近くの上空に自衛隊のジェット・ヘリだけが,すでに2機到着していたことが印象に残っていたそうです。そこから見えたありのままの現場の状況を記事になるような形で,無線で本社に伝えました。これが朝日新聞の事故現場の第1報の「本記」になりました。朝日新聞は,その版で「墜落現場は群馬県内山中」と報じたのですが,その後,運輸省(当時)と自衛隊は,「長野県内の山中」と正式発表をしたため,朝日も次の版では,「長野県内に墜落か」という見出しに変えたようです。
藤森さんはもう一度深夜にヘリを飛ばしてもらって事故現場に行き,測定した結果,「やはり群馬県内の山中」と確信を得たようです。しかし,運輸省と自衛隊は,長野県内山中という正式発表をあくまでも変えなかったために(しかも,後日確認すると実際の事故現場からかなり離れた地点),朝日新聞独自に「群馬県内」と打つかどうか,社の内部でもかなり長い時間に渡って激論が交わされましたが,結局,都内23区に配られる最終版の見出しは「墜落現場は長野・群馬の県境付近」になったということでした。
墜落現場が,版によって群馬県と長野県で揺れながら,どのように最終版の一面に盛り込まれていったのかという話は,実は救出の場所を特定する極めて大切な情報であったこともあって,この事故を直接知らない中学生にとっても当時の緊迫感がひしひしと伝わってきたようです。
運輸省と自衛隊が墜落現場を「群馬県内山中」と訂正するのは,10時間後のことでした。<なぜ,10時間も訂正が遅れてしまったのか>。この3月に記者を退職される藤森さんは,その理由を25年後の真実として,当時の運輸省や自衛隊などの関係者に改めて取材して書きたいと,その熱意を述べました。
最後に,記者という仕事は,好奇心を持ち続けられ,様々な人々と出会える本当に面白い仕事であることを,生徒達に語りかけました。
以下は,生徒の感想です。
「僕は改めてこの講習で情報を得るときは一つのものに頼るのではなく,いろいろなものを見比べて考えていきたいと思いました。ジャンボ墜落事件で生存者が4人しかいなかったというのは残念でしたが,深夜12時以降に,もう一度現場へ行って,ほぼ正確な墜落現場の位置などをつきとめたり,新しい情報を現場から伝えるなんてすごいと思いました。」(中学1年生)
校外からのスペシャルゲストは今回がラストです。次回は,この講座の最終回のまとめとして,いままで学んできたことを振り返りながら,生徒・教員によるディスカッションを行う予定です。
<総合講座担当>