空気
空気
山本七平氏の著述に『空気の研究』という評論がある。もちろん大気の成分などを科学的に分析した科学論文ではない。山本氏は個人の意志決定にその場の「空気」が大きく関わっていることを指摘している。近頃KY(空気が読めない)などの言葉で使われる「空気」である。その場の雰囲気、その場に参加している人間たちの暗黙の考え方の方向性と言っていいだろう。確かにその場の「空気」が読めない人の存在は周囲の人間の気持ちを乱すし、ときには迷惑ですらある。極端な場合は「いじめ」の対象になったりもするようだ。
しかし、「空気」そのものが絶対ではない、怠け者の集団の「空気」はできるだけ楽をしたい、怠けたいという「空気」に満ちているだろう。その「空気」を呼吸して「空気」を読んで行動することはどのような結果になるのだろう。
すなわち「空気」を読む前に「空気」そのものの検証が必要なのだ。ときには「空気」そのものを変える必要もあると思う。ただ、通常会議や、会話の中で口にするのは論理的判断や現実的状況で空気そのもののについて語られることは少ない。ということは「空気」を変えるということはかなり困難な作業に属するものかもしれない。個人的にできることはある。別の「空気」を吸いに行くことだ。その場から少し距離をとることだ。
「空気」に対する検証は、「ちょっとヘンだ」「何か違和感がある」といった感覚から始まるのではないだろうか。そんな感覚を感じたときには今本当にやるべきことは何か。改めて考えてみる必要があるだろう。
群集心理も「空気」の読み過ぎによる弊害の亜種だろうし、みんながやるからとマナーの無視や仲間内の「空気」だけを尊重し、周囲のもっと常識的な「空気」に気付かぬまま公共の場での声高な騒ぎなど気をつけたいものだ。空気の読めないのも困るが、汚染空気の読み過ぎも困りものだ。
教頭 五十嵐 寛