スチールイメージ 最終回
昨年度末に中学2年の国語の授業をスチールイメージという手法で実施された、次重文博先生と中田大成先生のお二人にお聞きした話を四回に分けて掲載してきました。最終回のまとめとしてお二人にコメントを寄せていただきました。お二人のコメントをもってまとめとします。 (五十嵐寛)
今回行った「走れメロス」を扱った授業は、ドラマのスキルを生かしたものです。それが、「スチールイメージ」という手法を用いたものであり、また、ここでは詳しく紹介されていませんが、続けて行った「ホットシート」というものです。それは、登場人物であるメロスやセリヌンティウスやディオニス王になって、インタビューに答えてもらうというものです。例えば、ディオニス王に向かって「王様、山賊がメロスさんを襲ったのは王様の命令であったとメロスさんは言っていますが、それは本当ですか」などと問いかけると、王様になった生徒がそれに答えるといった具合です。それは、本来はその場で即興的に行われるやり取りですが、今回はそれをプリントにして行いました。
「スチールイメージ」も「ホットシート」も、生徒がその瞬間、それぞれその登場人物になって動いたり、語ったりしますので、物語を外から眺めるのではなく、いわば物語の中を生きるようにして捉えることになります。そこに、「こころ」と「からだ」と「ことば」が結び付く体験が生まれるのではないかと企んだわけです。
国語の授業にドラマのスキルを応用しようと思った背景は、実は私自身がドラマエデュケーションのワークショップに参加した際、非常におもしろかったという単純なものです。人はどうやら「意味」を求めずにはいられない生き物であり、「物語」や「ドラマ」を求めずにはいられない生き物です。今回の授業も発表を目的としたものではありません。人にうまく見せようとするのではなく、「物語」や「ドラマ」をめぐる活動自体が創造的なものであり、多様な「気づき」を含むものです。試みに行った今回の授業で、子どもたち自身が「おもしろい」と思える体験をしてくれているといいのだが、と願うような気持ちです。
(国語科 次重文博)
ポストモダン化・情報化の進展あるいは社会の成熟化に伴い、子供たちがどんどん‘動物化’(評論家東浩紀氏の用語/複雑な人間関係や社会関係抜きで、身体的な欲求を即座に求める傾向のこと)していく中で、その流れを不可避・不可逆的なものと認めながらもなんとかその流れに抗いながら(時にはそれを逆手にとりつつ)、なおかつもはや時代との適合性を失いつつあるフーコー的近代人(=所詮それは他律・大きな物語を内面化した主体・人間に過ぎない)に替わるオルタナティブとしての人間に子供たちを育て上げていく上で最も重要な概念は、‘気付き(awareness)’、それも身体的な次元の感受に裏打ちされた決して観念に回収されることのない気付きであると思います。今回の取り組みもそうした気付きを生徒たちに持たせるための一つの試みであるとご理解いただければ幸いです。
(国語科 中田大成)